学都深草

 電柱には「練兵」の文字。うずらのある西浦町、昔は練兵場だったところ。 伏見はというより深草は戦前、軍都、軍隊の街でした。深草のランドマークのひとつである聖母女学院本館はかつての陸軍第16師団司令部庁舎。

電柱に練兵の文字

 うずらからほど近い、師団街道南行きの深草西浦町バス停の次のバス停は藤森。そのバス停には旧い石柱。「紀元二千六百一年 飯食町」の文字が書かれています。1941年を記念する石柱です。

 なぜ1940年ではなくて、1941年なんだろう、見るたびに不思議に思えて、頭の中を廻らせてみた。 1940年は皇紀では紀元2600年。幻となった東京オリンピックも予定されていた。「紀元2600年」なら他の場所でもいくつか見たことがあるが、「紀元2601年」は近隣では見たことがありません。

 1941年、当時の人にとってなにが記録・記念するものだったのだろう。1941年は太平洋戦争開戦の年。一撃加えればすぐに終わるだろうと始めた日中戦争は膠着、泥沼化、欧州では大戦が始まっていて、米英を相手に戦争をするかが問われた時期。現在から見ればそれは無謀な戦争とはっきり分かる。当時も米国と戦争して勝ち抜けるとは思っていなかったが時代の雰囲気が米国との戦争を後押ししていって、回避する機会は何度もあったのに、まさに「それでも戦争を選んだ」

  1941年12月、初戦で米英を破り、それこそお手本たる西洋の大国を撃ち破り、近代を超克ししたと舞い上がる空気がまさに「二千六百一年」を記念させたのではないだろうか。

 1941年12月8日に対米英戦争が始まり、1945年8月15日の敗戦までの期間3年8か月。4年に満たない年月で、大日本帝国は崩壊した。 軍都伏見も終わり、そのかつての軍事施設は平和を望む地域の人々の営為で大学を始めとする教育機関に生まれ変わった。 軍都から学都深草へ。今も学都深草は続いている。

聖母女学院本館